語学は磨き続けるもの

語学には「完成」はありません。どの国の言葉も時代とともに変化し続けるからです。そこにあるのは時代にあわせて常に変化する「人の精神性」なのです。

「言葉」は使うことに意味があるものです。人が口にして、また誰かに何かを伝えるために用いてはじめて、その存在理由が発揮されます。言葉を言葉として用いることは、「人とコミュニケーションをとる」ということでもあります。そんな言葉は、それを使う人の意識、精神性によって影響を受けるものです。そして人の精神性を左右するのが「環境」です。つまりそこに生きる人の相互作用、カタチがあるようでない「社会」という共同体の影響を多分に受けているのです。人は社会に参画する一方、誰が定義したわけでもないその「時」の状況によって左右されるものなのです。私たちは常に変化しながら生きています。社会も多様性をさらに拡大しながら、それぞれの人に対してさまざまな側面を見せ、人によっては厳しい社会、人によっては楽しい社会と、感じ方が違うものです。ただ、その世相がもたらすある一定の全体に共通する影響力はあらゆる人に対して同じような作用を産むようで、そのような状況の中から新しい「言葉」が生まれたり、言葉の「新しい用法」が生まれたりするのです。

それが私たちの知る「社会」と私たち「人」、そして社会の関係です。漠然としているようで、確実に触れ合っているもの、そして見えないようでいて確実に見えているはずのもの、そのような社会と言葉は、私たち「人」の意識や精神性によって影響を受け、常に変化しています。それらは文法では表せないような言葉です。私たちの「心」が反映された、その時だけの、あるいはその時から未来に至るまで用いられるようになる言葉なのです。

それは「語学力」を磨くだけではどうしても身につかない言葉であり、用法です。そこに込められているのはその土地、その国の「文化」であり、しかもそれは絶え間なく動き続ける「生きたもの」であるのです。ですから語学を極めるということはあり得ないもので、同じ国でも年齢によって言葉が違ったり、使い方が違ったりするのは、それぞれの世代が観ている社会が違い、受けてきた影響が違うからです。日本でも戦前欧米文化の撤廃があったはずなのですが、現代ではなんでもカタカナ表記、さまざまな分野で専門用語としての欧米単語を使いこなしています。

言葉を学ぶことの究極的な到達点は、その国の「文化」を学ぶことです。「文化」は生きていて、人に作用し続けるものですから、そこには「ここまで学べばいい」というラインはなく、その国のネイティブの人でさえも来年に産まれるかもしれない新しい言葉を想像もできないのです。人とコミュニケーションを自然にとるためには、それらの新しい言葉を無視するわけにもいかず、より自然に会話をしようとすればするほど、その辞書に載っていないかもしれない言葉の数々は重要になってくるものなのです。たとえそれがその国の言葉の文法から外れたものでも、それが人に用いられる以上は「生きた言葉」であるのです。文法などはもともと存在した言葉を体系化したものに過ぎないということです。