語学はいつまでも特殊スキルではない

世界の共通語は「英語」です。アジアの諸国も、アフリカの諸国も、欧米圏はもちろん、英語を用いてコミュニケーションをとっています。英語が話せるだけで世界中の人とコミュニケーションがとれるということは嘘ではありません。

日本では、「海外の言葉」に対して特に苦手意識を持っている人が多いようです。英語を話すなんてとんでもないとか、自分はとてもではないけれど外国人とコミュニケーションはとれないというような「思い込み」が激しいのです。ただ、それは思い込みであっても、現在では実際にそうだからタチが悪いのです。実際に海外の人とコミュニケーションをとることが、圧倒的に私たちは少ないのです。そしてそのような状態でも満足に生活できているため、気にすることなどは少ないのです。たまに外国人に道を聞かれ、その説明に困るときくらいなのではないでしょうか。その時も「どうにか伝わったかもしれない」という程度で満足しています。海外の人とコミュニケーションをとることが自分の中ではセンセーショナルで、驚きに満ちたものだからです。

なぜそうなっているのかというと、私たちの暮らしている日本が「島国」だからです。島国である日本は古来海外からの訪問者が少なく、それらは「珍しい」という認識で捉えられました。私たちの長い歴史の中で、「海外の人」というのは文化も言葉も容姿も違う、なんだか得体の知れない存在だったのです。だから、江戸時代には鎖国をしました。それは平和であり続けるための選択でもありました。刺激的な海外からの情報をシャットダウンし、日本の中で、私たちだけで生きていこうという決断でした。

やがて鎖国が解け、海外の列強と並んで近代化を図ってからも、生活者である私たちひとりひとりの気持ちに変わりは生じなかったのです。「母国」である日本を敬う気持ちこそ出てきたものの、自らすすんで海外との交流を持とうと考えるような人は少なかったのでしょう。そして日本は世界を巻き込む戦争に身を投じていきます。日本が世界の雄になるために、アジア圏の覇者になるために、その戦争は起こりました。

そして歴史が語る通り敗北します。その敗北は「国土」の違いから生じた国力の違いを痛感させるものであり、恐ろしいアメリカの強大なチカラを実感した瞬間でもありました。その数年間、日本はアメリカの統治のもと過ごすことになりました。その段階で、実は私たちは英語を強制的に学んでも良かったのです。

ですが結果は違い、今日まで続くカリキュラムだけの、理詰めだけの英語教育に留まりました。私たちは依然として英語が苦手です。だからこそ、私たちの中で英語が特に得意な人は重宝されているのです。語学が特殊スキルであるということになっています。英語が話せるだけで、仕事には困らないという時代があったのです。

ですが、そのような時代はとっくに過ぎ去っています。さらには、学校の教育自体を変革することでこれから成長する子どもたちの英語力を格段に引き延ばそうという試みも始まりました。私たちは新しい時期に突入しているのです。学校教育を受ければ誰でも英語が話せるようになる時代、誰もが海外とコミュニケーションをとる時代は、あと20年もすれば到来するのです。