社会は決して甘くはない

私たちが暮らしている「社会」とは、実は固定化されたものではありません。社会を作り上げているのはそうして関わりあう私たちひとりひとりなのです。私たち自身が、それぞれが、共同体としての社会を作り上げているのです。

ですが、新たに「労働者」として参画するようになりはじめるとすでに定められた「ルール」のようなものは確かにあります。順守することが「良い」とされるものから、「法律」や「条例」として定められたものまで多岐にわたります。それらの「ルール」に対してどのような姿勢で臨むのかは私たち次第です。無視して「異端」と言われたり、糾弾されたりするか、いやいや順守するか、そのようなルールが存在する「理由」を考えてみるか、さまざまなスタンスでその場に臨むことができるでしょう。どのように考えたとしても、関わらなければいけない社会は変わりません。また、個人レベルで簡単に社会のルールを変えることもできません。

社会とは実に不定形を示すものです。「実態」は私たち自身でありながら、自分の意志ではどうすることもできないというものです。自分がどのようなカタチを望んでも、それに共感する人が「大多数」でなければ社会には反映されません。なのに、いつの間にかどこかで発生したムーブメントが、徐々に波及し、気づいたら新しい「スタンダード」として成立してしまっているということも多々あります。それはファッション的な「流行」から、ビジネス上の新しい常識に至るまで、多岐に渡るのです。

そのようなことについていかなければいけないというわけではないのですが、ついていかなければ相応のリスクはあります。そのようなリスクを覚悟できるのであれば、自分を貫いてもいいのではないでしょうか。ただ、貫くことで失うもの、また本当は得られるはずだったものを逃してしまうこともあるでしょう。すべては自己責任です。私たちは「ひとり」では不安を覚えるものです。また、「取り残される」ことに対してさらに不安を感じるものです。最先端でいること、「知っていること」に対して非常に優越感を感じたり、満足したりするものです。そうしてある物事が社会に浸透していくのです。

それが「世代」で違ったりするものですから、さらに厄介なのです。そして、若い世代が満足するようなことを私たちの上司にあたる世代は価値を持たなかったり、嫌悪したりするものです。そのような「ズレ」の数々が、トラブルを招くこともあります。そのような極めて不確定な「社会」に対して、誰もが悩み、誰もが苦しんでいるものです。自分だけうまくすり抜けようとか、自分だけうまく立ち回ろうと考えるほど、それは空回りするものでしょう。それが「社会の厳しさ」の半分です。残りの半分は自分の「責任」をどう果たすのかという、自分の能力に依存する部分です。自分がどのように立ちまわるのか、どのようにして仕事と向き合うのかという、「自分次第」の部分です。もちろん怠ければ怠けた分だけのしっぺ返しが来るでしょう。ただ、努力してもそれがすべて報われるというわけでもありません。一概に答えが出せないということも、社会の厳しさのひとつではあります。