グローバル化という言葉は死語

国境がなくなった。世界はひとつになろうとしている。インターネットが世界を狭くした。など、さんざんに騒がれてはいます。それ自体は「グローバル化」という言葉で表される現象です。 ですが、私たちの目には見えないところで「グローバル化」は自然と成立しているのです。それは別に楽しい、お祭り騒ぎ的な変革ではなく、厳正な、人が生きるための、企業が生き残るための、「ビジネス」としての成熟は成されているのです。世界中で人が生きています。人が生きるためには何らかの糧が必要で、糧を得るためには働く必要があります。私たちは働くためにさまざまなことを捧げます。「仕事」とは私たちにとって自分の生活を支えるために必要なことであり、仕事とは私たちにとって自己実現の場でもあります。そのような「仕事」として、実は「国際化」はとっくに成し得られているのです。

ニュースでも話題になる「貿易」ですが、日本は特にこの貿易が重要です。資源に乏しく、中には需要のほぼすべてを輸入に頼るしかない状態にあるのが私たちの日本です。その中で世界各国と関わり、日本は技術を、世界各国からは資源を、というカタチで貿易を進めてきたのです。実は私たちの暮らしはもともと世界の中の絶妙なバランスで支えられてきたものです。国内でああだこうだと、異文化交流、グローバル・コミュニケーションといっている間にもずっと、国外のさまざまな利権と関係してきたわけです。

一般にグローバル化が叫ばれるようになったのはやはり「インターネット」のチカラが大きいかもしれません。インターネットによってもたらされたのはリアルタイムで違う国のWEBサイトが閲覧できるということです。ただ、「それだけ」ともいえます。私たちはそれらのWEBサイトを通じて自分が見たいもの、知りたいことを即座に得ることかできるようになりました。ただ、日本語しか理解できなければ、閲覧できるWEBサイトの数は限られます。幅が限られます。それによって得られない情報も出てくるのです。

さらには国外で働くというような状況や、逆に外国人を労働力として雇い入れることも普通になっています。海外がより身近に感じられる、しかも一般消費者に至るまでそのように感じることができるようになったので、あらためてグローバル化が叫ばれているだけなのですが、実はそれはナンセンスです。実際には世界との関わりの中で成長してきた国に住んでいるのです。

昨今では小学校でも英語が必修になっています。高校を卒業すれば英語などは自然と話せるようになってほしいということから、学習指導要領が変更になったのです。そうして今の子どもたちが成長して、実際に英語を使う相手はアメリカ人だけではないのです。製造業であればそのようにして話す先が、英語を用いて話す相手が「中国人」であることの方が多いかもしれません。英語はただ単純に世界共通語としての機能を果たしているにすぎません。職種によっては英語を用いてアジアの人々と話すことが増えるかもしれません。

グローバル化の実際はこのようなものです。国際間で手を取り合って、というイメージは、私たちの勝手な妄想です。誰もがビジネスを経て生きていて、そのためには海外との関わりは必要不可欠なのです。